残り蛾
これは、自分で思うよりもずいぶんと前の話だ。おそらく。
しかし未だに鮮明である。
ふと、ただ暗いだろう窓を見て、するとそこにヤモリが白い腹を張り付かせていたり、蛾が鱗粉を周囲に貼り付け止まっていたときの恐怖のようなものである。
けして、この記憶が恐怖に基づく、という意図ではない。ただ、そのように、心臓にこびりついて、いつでも目蓋(まぶた)の血管に毒を送り込むことが出来る――そのようなあれ、ということ。
かすかに忘れられそうなのは、あのひとの耳殻の形くらいで、しかし忘れられると思うほどに忘れられなくなる。
ああ、あの両耳を羽ばたかせて、いつまでもおれの窓に止まっている。鱗粉は髪の毛、季節柄少し湿って、よくへたへたと貼り付いている。
* *
申し訳ない、少しまた、怯えて取り乱してしまったようで。
今はもう、秋ですね。もう、虫もやかましくなくなってきて、随分と過ごしやすくなってきましたね。
それでも、気を抜いてはいけない。
よろしいですか?夏の残り蛾は、いまだ漂っているのですよ。
耳を澄ませば聞こえるでしょう、かように。ふたふたふたふたふたふたふた、恐ろしい音で、いまだ漂っているのですよ。
だから私はもう寝たい。早く布団にくるまって、朝になりたい。できれば帰っていただきたいなあ、とすら思うほどです、このようなお話をするのは、もっと冬になってからにしていただきたいなあ、とすら思うほどです。延々と、このようなことを続けている原因は、延々と話しはじめない、私のせいだとはわかっているのですがね。
だって、蛾がこわいものですから。
* *
この椅子は、いつもこうやって私を迎え入れてくれる。それはとても嬉しいことだ。
いつだっておれはこの椅子に座るのが好きだった。気分よく晴れていても雨が降っていても、激しく晴れていても嵐が吹いていても、この椅子に座っていれば、とりあえず何事かはどうにかなる。そんな気がしていた。
丸みを帯びたフォルム。少し横長(椅子というよりソファか?)。外枠は甘くつやつやしている一本の木の枝でできており、モダンな印象を与える。その内側に張られている布、つまりは座るところだが、そこは薄く褪せたベージュ・ワインレッドの太い縞模様が編みこまれている。ざらめいた肌触りは、海の底の砂を撫でているような心持で、安らぎ、恍惚となる。何度も何度も往復して、この地を撫でる。
おれは大方、この椅子に座っていた。座ると、この薄暗い蔵書の部屋の唯一の小窓が、左に少し見上げる位置にある。首を軽く持ち上げ、くいっと左にそらし、外を見るのが好きだった。
好きだ。
雲が早く動く日も、雲がなかなか動かない日も、雲がなかなか見えない日も、好きだ。明け方、身体を起こし、わざわざここに座ってぼうっとしていると、何かが流れるような朝焼けが見えることもある。好きだ。
(書き途中)
蛾が入ってきた日、怖いから外にいた。すると少し醜いうちの女中が買い物から帰ってきた。あまり好きではなかった。その女中に、蛾がいるのだと告げると、意気揚々と、蔵書の部屋に入り、おれは入り口の外で待っていた。女中はしばらくすると、もう大丈夫ですよと言ってきた。おれの部屋は無事だろうか、という心持で中を覗くと、女中は右手に蛾を、左手をおれの椅子の肘掛に、やっていて、小窓から蛾を放とうとしていた。だから、ここは二階だったので、窓から女中を落としました。
蛾はまだいるじゃないか、思慮の足りない女め。おれの椅子に触るな。おれの椅子に、蛾を持ったまま触るな。その蛾を放つな、また来たらどうするのだ、おれはお前に頼みごとをするというのはあまり好きではないのだ。だから、ここは二階だったので、窓から女中を落としました。
落ちていく姿をおれは見た、だって窓の奥の奥の奥まで押し込んだのだから。落ちていく姿はやはりぶざまで、腕といい脚といい、蛾がもがいていた。ええい、はやく落ちきらないかな。姿は横向きになり、目が鼻が目が耳が髪が、くるりと見え、また横向きになって、そのころようやく家の裏手、小石の敷き詰めてある細い通路に落ちた。もう長い夕方も終わりそうな時刻だったので、もともと暗い場所だったのだが、さらに暗くなっていた。久しぶりにこの通路を見た。
だから、なんだかもう行きたくなかったものだから、放っておいたんです。後は知りません、しばらくした朝、ふと椅子から身体を伸ばして下を見てみたら、なくなってました。多分両親が見つけたのでしょう。
二親は、結局おれに何を問うことも無く、しばらく前に死にました。秋だったんです。結局何も聞かれませんでした。葬式の会場の外の街燈の下、人々が帰っていく上で、蛾が一匹飛んでいまして、妙な冷静な激情にかられまして、平静に足を動かして、会場の片付けに戻りました。早足で。
それからも、椅子に座っています。座ります。ただ、なぜか窓を締め切りにして、窓から顔を出さないようにしないと、気がすまないんです。せっかくのおれの窓が阻害されているようで、なんだか不満足です。
お話しました。それでは、お帰りくださいますか?申し訳ないですが。まだ、夕方は長い季節です、夜道はそうそう暗くなりはしないと思いますが、お気をつけて。お見送りしますよ、久しぶりに誰かと話しましたから。なんですか?
ああ、はい、この椅子がそれです。
|
|